こだわりの材料【チェコガラスボタン】の歴史♪きれいでかわいいチェコボタンの秘密
チェコガラスボタン、ご存知でしょうか。
愛らしい模様、クラシカルな模様が入っていたり、ブラックライトを当てると蛍光するウランガラスで作られていたり
様々なガラスボタンがあります。
いくつか事例をご覧いただきましょう。
こちらはネコちゃんの形のチェコボタン。
手書きで猫の顔が描かれているので、全部表情が違います。
アールデコといわれる、1925年のパリ万国美術博覧会で花開いた装飾の一つを用いたチェコボタン
モダンな雰囲気で、お洋服などをオシャレに装飾するボタン
画像では、帯留めに加工しています。和でも洋でもどんなアイテムにも使えます!
【作家さん 関谷愛菜さん】
日本風なチェコボタンや、つばめが詰まった?!ユニークなボタンなども色々あります。
ぜひ、こちらもご覧ください。
約300年前から生産されていた歴史あるボタン
300年前・・日本で例えるとちょうど徳川吉宗の時代ですね・・この時代から
ボタン製造に理想的な豊富な天然資源を持つチェコ共和国にある、
ジゼラ山脈の一帯、ヤブロネツク地方で生産されてきました。
この地方最古のボタン職人として知られるハインリヒ・ハイドリヒ(1703年生まれ)は、もともと錫からボタンを作り始めました。ジゼラ山脈のガラスは、1760年代から金属製の台座にランプ細工のガラスをはめ込んだボタンに使われるようになりました。同時期には、高度なファセット加工を施したダイヤモンド・カット・ガラスを金属の土台にはめ込んだプレス・ボタンの生産が始まったのです。
1800年後半には160の工場が誕生!!ガラスボタン産業がどんどん盛んに!
1820年代まで、金属ボタン用のガラスインセットの生産は続きました。
1829年から1832年にかけて、金属の台座が不要なプレス・カット・ボタンが初めて製造されました。
最初の製品は特に品質が良いものではありませんでしたが、ブラッシュアップされて品質が良いものへと生まれ変わってきました。
プレス・ガラス・ボタンは、熱したガラスを棒から金型に金属製のトングで押し込んで作られます。
1820年代の終わりには、これはジゼラ山脈で最も広く普及していた商売のひとつでした。
高い煙突が目印のプレス工場が丘や谷のあちこちにできたのです。
なんと1800年代後半には160のプレス工場がありました。
豪華な光沢のあるカメオボタンの生産が開始
ガラスボタン製造の中心地はいくつかの町に集中し始めたが、金属ボタン製造の最前線にあったヤブロネク・ナド・ニソウを中心に販売されてきました。また、Smržovka(スムルジョヴカ)では、1835年から1845年にかけて、豪華な光沢のあるカメオボタンの生産が始りました。
この初期の豪華なガラスボタンは、当時非常に高値で取引されていましたが、他の職人もガラス製造会社に加わり、ボタンをプレスするための印象型を作る専門の彫刻家も加わりました。
そして、1864年以降、ボタンの製造業者と輸出業者はかつてない成長を遂げました。しかしこの時点ではたった5種類のボタン、そして色も黒のものが大半でした。
1800年代後半になると、技術は急速に向上し、ボタンの種類は、安価なプレスボタンから高価で豪華なカットボタンや装飾が施されたものまで、数千種類にのぼります。チェコボタンの豊富なデザイン性の秘密がここにあります。
1880年代に再び黒が流行するまでは、手描きのデザインが主流でした。
19世紀になると、ボタンメーカーの景気は乱高下しましたが、危機のたびに新たなデザインが誕生。
1885年、ヤブロネク地方には176のボタン製造業者が誕生したのです。
激動の時代の始まり。そして・・全盛期へ。
20世紀初頭、不当な外国との競争はボタン業界に大きな打撃を与えましたが、ジャブロネツ地方のボタンメーカーは、色ガラス、レースボタン、ウェストコートや手袋用のランプワークボタンの導入で再び反撃に出たのです。高級品市場は好調であったにもかかわらず、粗悪なボタンが市場に出回り続けたこと、外国との競争、そして戦争によって、第一次世界大戦が終わる直前まで、市場の関心は低迷しました。
戦間期、ガラスボタン産業は最も安定していました。ボタン用金型は非常に高価であったため、多くの外国企業が敬遠しました。1925年には1340トンのボタンが輸出され、その3分の1以上はアメリカに向かったのです。
今もアメリカにはなぜかデッドストックのチェコボタンを扱っているお店も多いのです。
私もチェコボタンをアメリカから輸入する場合も多々あります。
最高の年は1928年で、2132トンが輸出されました。やがてプラスチックや木材との競争、そして1930年代の景気後退が輸出の大幅な減少を招きました。しかし、1930年代初頭には銀色や金メッキのボタンの生産が増加しました。
山あり、谷ありの時代を乗り越えたものの・・・国営企業に
1938年以降、海外市場は失われ、最大の顧客はドイツ軍となりました。大戦が終わると、最初の収用と国有化の波が押し寄せました。戦後、アメリカはガラスボタンに飢えていたため、市場は回復。1948年、Sklenena bizuterieとして知られる国営企業が設立され、143の企業と実質的にすべてのボタンメーカーが組み込まれました。1952年にはPZO JablonexとŽeleznobrodské skloが国営企業として設立。1990年代まで、この産業は山あり谷ありだったのですが……時代とともにヤブロネツク地方での生産は衰退していきました……。
画像はちょうど1920年ころのガラスボタン。アメリカに大量に輸出されていた時代に作られたものです。
私たちがアメリカから輸入し販売していたガラスボタンです。そのため裏面には チェコスロバキアの刻印があります。
歴史の話をすると、チェコの歴史は周辺諸国と戦争に翻弄されてきました。
戦争の時代、ナチスドイツが現在のチェコの北部、ドイツ・ポーランドとの国境を接する一帯を割譲、そして残りのチェコスロバキアを解体、チェコの西部でプラハを中心とした地域(ベーメン地方)を保護領、そしてスロバキアを独立させたのです。
つまり、チェコスロバキアはバラバラに……その後1945年に1938年以前の形で復活することになります……。
時を超えて今ここにある一期一会の出会い それがチェコボタン
日本にいると、なかなかピンとこないお話しかもしれませんが一つの産業も戦争や周りの国の状況によって状況が変わってきてしまうこともあるのですね……今こちらのお店でご紹介しているボタンたちは、そんな歴史の片隅で、存在を忘れ去られそうになっていたボタンたちです。デッドストック品として誰かが表にだし、そしてそのボタンを私たちが仕入れて、また誰かのもとに旅をする。
モノとの出会いも一期一会ですね!
引用元: www.beadstory.com